掘哲(ほりてつ)について

「ドーナツの穴」や「隻手音声」など、毎回1つ、哲学・禅の公案からテーマを選定して、その解説と解釈を2人で楽しくお話しする、哲学バラエティポッドキャスト。
哲学について興味が出て来た人に、聞いてもらえると嬉しいです。毎週木曜日17時に新しいエピソードを追加しています。

話し手は格(かく)さんと団子(だんご)さん。

背景の絵
Two farmers digging over
(after Millet) – 1889

リスナーの感想文

昔読んだ本のゲーデルの不完全性定理を思い出しました。無矛盾で完全な閉鎖システムは存在しないということを数学的に証明したもので。仮にそうだとすると、数学より複雑な次元の人間の世界において、時間軸と空間軸でほぼ無限に変化していく世界において、ある問いに対して、絶対的な解答なんかないのかもなー。と。

じゃあ、哲学を掘る意義はというと。僕は、哲学という礎があると、ひとつの問いに対して、相対的により俯瞰した視点から、今まで生きてきたひとたちの肩の上に立って、考えることができる(正しさというよりは色んな角度から物事をみることができるイメージ)。と考えていて。それにより、自分や他者に対してとる行動の選択を、自分や他者にとって、より豊かなものにできるかも知れない。と考えています。

あと、空の概念、私これ即ち世界、私と世界をひとしく見る、区別を取り払うような世界観、も想起しました。個人的な意見としては、空の理論は究極的でわくわくするけど、思うにそれもひとつの視点で。そこを礎に物事を考えるというよりは、それも礎のひとつとして物事を考える、ということが大事なのではないかと。普段考えています。

というようなことを思いました。